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麒麟がくる 第2回 みどころ 織田信秀とは?

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 「麒麟がくる」の初回の視聴率は初回は19%という事で結構良い滑り出しでした。 第二話では斎藤道三織田信秀が加納口の戦い(井ノ口の戦い)で対決します。 みなさんは織田信秀の事を知っていますか? 信長のお父さんということは知っているけどどういう人物かはよく知らない人が多いのではないでしょうか・・・?そこで本記事では織田信秀について解説していきます。

織田信秀とは・・・?

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 1511年に織田大和森家に仕える清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれます。 つまり、大和森家が織田家の本家、信秀の家柄はそれを支える分家の一つにすぎませんでした。 そして、1527年に家督を受け継いだ信秀は勢力拡大に動き出します。

他の有力大名にはない「居城移動」

 信秀は1538年頃、那古野城を謀略によって今川氏豊から奪いとると、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に進出。さらに古渡城、末森城と、築城と移動を繰り返して勢力を拡大していきました。当時、度重なる拠点の変更は戦国大名としては珍しく、信秀の戦略には他の戦国大名にはない特異性があったといえるでしょう。

 上洛して朝廷にも献金、将軍に拝謁!

 経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下斜位され、備後守に任官されました。 さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁し、伊勢神宮神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上したり、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示しました。

松平氏・今川氏と戦った

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 対外においては松平清康(徳川家康の祖父)が尾張に侵入し信秀の支配下の東春日井群の品野城や、愛知郡の岩崎城を攻め取られましたが、1535年に清康が尾張に出陣中に家来に殺されるという事件(守山崩れ)で不慮の死を遂げて、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵入して、1540年には安祥城を攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置きました。さらに1542年には第一次小豆坂の戦いで今川氏と戦って勝利して西三河の権益を保持しました。

斎藤道三とも戦うが大敗

 1542年には美濃の守護の土岐頼芸と子の頼次が斎藤道三によって尾張国へ追放され、信秀は頼芸を支援して、越前国で同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼芸を庇護下に置いていた朝倉義景と連携し、美濃へと出兵して斎藤道三と戦い、大垣城を奪いました。しかし、1544年に道三の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗します。(加納口の戦い)。

勢力の陰りと限界

 信秀は主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家や主君である尾張守護の斯波氏を上回り、弟の織田信康織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する地位を築いていきましたが、あくまで信秀は守護代奉行であり、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままであり、さらに何度も敵対したり反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとはせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うには限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがありそれらの排除と尾張統一は信長の代を待つことになります。

信長との関係は良好だった・・・?

  信秀の先見性が最も発揮されたのは跡継ぎに信長を選んだことかもしれません。信長が幼少の頃に那古野城を譲り古渡城に移り、早い段階で跡継ぎに決めていた信秀。早くから信長の才覚を信じていたのでしょう。信秀は攻防を繰り返していた道三と和睦し、信長と道三の娘、濃姫を結ばせます。道三はその後に信長を支援しました。隣国への脅威が和らいだ信長は尾張統一へと動き出します。

  信秀の戦略・精神は信長へと受け継がれる

 

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 織田信秀は道三と和睦した3年後の1551年にはやり病でこの世を去りました。尾張のなかで本家や主君を上回る尾張随一の勢力に押し上げた信秀。その戦略や精神は信長へと色濃く受け継がれました。信長の急激な勢力拡大は信秀なしには実現できなかったことでしょう。