2025年大河ドラマ主人公、蔦屋重三郎とは・・・?
「蔦重」こと蔦屋重三郎は江戸時代を代表する日本初の出版プロデューサー。ちなみに歴史通の私ですが蔦屋重三郎の事を全然知りませんでした。でも大河ドラマを楽しく見るためには知らないわけにはいきません。 ちなみ結論から言うとTSUTAYAとは関係ありません。ただ、今のTSUTAYAも「本・音楽・映画」などをプロデュース・流通させているという点では、ちょっと“魂”は受け継いでいるかもしれませんね。
彼が活躍したのは安永期から寛政期の約30年間は、町人文化が華開いた田沼意次による田沼時代、そして、これを弾圧する松平定信による「寛政の改革」という、大衆文化にとって激動の時代、蔦重は彼が見出した有能な戯作者や絵師とともに、様々な新しいメディアと流行を作り出していきます。現代マンガの原型となった黄表紙、恋愛小説を生んだ洒落本、描かれた人物の本質にフォーカスした浮世絵。美人画の大家となった喜多川歌麿、大ベストセラー「南総里見八犬伝」を書いた曲亭馬琴、滑稽本のジャンルを生んだ「東海道中膝栗毛」の十返舎一九など、無名だった彼らの才能を見抜いたのも蔦重です。彼には時流を先取り企画力、才能を見抜く慧眼、類まれな経営力。そして権力から守り抜いたからこそ大衆文化とエンターテイメントが生まれたのです。そんな蔦重の生涯に迫りたいと思います。
蔦屋重三郎の生い立ち
生年:1750年2月13日(寛廷3年1月7日)江戸の遊郭、新吉原に生まれる。
両親:父は丸山重助と母・津与。
身分:町人階級。出生についてははっきりした記録がないものの、遊郭の町「吉原」で育ったことが、後の出版や文化への感性に影響を与えたと言われます。
養子に入る:重三郎が7歳の時に両親が離縁し、重三郎は商家だった喜多川家の養子に入る。喜多川家は遊郭内で引手茶屋を営んでおり、屋号は「蔦屋」といった。
津与の影響力:
幼少から青年期を吉原で過ごし、しかも茶屋の養子となれば、遊郭で繰り広げられる人間ドラマを幾度も見せられてきた。華やかな舞台の裏には、欲望と金が渦巻き、苦界に沈む遊女たちの悲哀があった。 そんな人間の表と裏が否応なしに蠢く中、母・津与は物事を見抜く眼力と成功への意志力を、重三郎に教えた。
吉原で書店「耕書堂」を開店する
吉原細見』の販売で事業をスタート
安永元(1772)年、23歳の重三郎は、吉原大門口の五十間道の左側、蔦屋次郎兵衛の茶屋の軒先を借りて書店を構えた。当初は『薜羅館』としたが、後に『耕書堂』と改めている。この見世が、江戸のメディアを席巻し、後世に名を残す大版元となる。重三郎が最初に手がけたのは、『吉原細見』の卸販売だった。
吉原細見とは、遊女や茶屋、揚屋を絵地図のように紹介した吉原案内のパンフレットで、江戸では老舗の鱗形屋孫兵衛が版元として独占していた。 重三郎がどのようにして鱗形屋の傘下に入ったのかはわからないが、吉原のすべてを把握している重三郎にとって、大門口で書店を構えて遊客を相手にする細見販売は、リスクが低い堅実な商売であった。 大手版元の鱗形屋なら、後ろ盾としても堅い。この選択が、重三郎の運命に大きな影響を与える。
貸本屋として太い人脈を作っていく
並行して営んでいたのが、貸本業だ。当時の書籍は高価であり、庶民は専ら貸本を利用した。書店としては、本は売るより貸したほうが日銭を稼げた。 貸本屋として回る重三郎の商圏は、当然、吉原だった。茶屋や揚屋に出入りすることで、吉原内の情報は容易に入手できる。 遊客の中には大名や大店の旦那、地方の豪商も多かった。さらに吉原の情報通として名を売れば、太いパイプを持つ人脈を作ることも可能だ。細見売りで終わるつもりのない重三郎にとって、貸本業はうってつけの商売だったのである。
読みやすい『吉原ガイドブック』でライバルを圧倒
弱小本屋がいきなり出版社になった
鱗形屋の傘下で「吉原細見」が刊行されていたが、「一日千本」は蔦屋重三郎が版元として初めて出版した作品である。安永4(1775)年、重三郎は突如として、吉原細見『籬の花』を版元として刊行することとなる。もともとは、軒先で細見を販売する小規模書店にすぎなかった蔦屋が、開業からわずか2~3年で自ら出版を手がける版元にのしあがった背景には、ある特別な事情があった。鱗形屋は、手代による盗作事件に巻き込まれたため、吉原細見の刊行を断念せざるを得なかったのである。これを好機と見た重三郎は、鱗形屋に代わり自ら版元となって『籬の花』を出版したのであった。
今後の大河ドラマの見どころ
今年の大河ドラマでは、果たしてどこまで彼の出版人としての野望と人間ドラマが描かれるのか?歴史の教科書には出てこない「江戸のカルチャー革命」をどう演出してくれるのか、今から楽しみです!
あなたは、蔦重のどんな一面に注目していますか?